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墨攻

 投稿者:イバちゃん  投稿日:2008年 2月26日(火)22時47分22秒
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  はじめて投稿いたします。映画のお友達を知ってから、何か一度、自分なりの感想を書いてみたいと思っていましたが、なかなか題材が思いつかず悩んでおりました。最近、昨年劇場で鑑賞した『墨攻』をDVDで観なおした際、あまりにも劇場鑑賞時と印象が違ったので、なんだこれは、DVDで観たほうが面白いじゃないか!と思い、その違いなどを感想に書いてみようと思います。『墨攻』は、古代中国戦国時代に実在した思想集団・墨家の教えを実践する男・革離の物語である。最も墨家の思想が顕著に表れている「非攻・兼愛」の教え。弱肉強食の戦国時代に侵略戦争を「人類最大の犯罪」と定義するその教えは、原始キリスト教や現代のヒューマニズムのように人の心を打つものであるが、実際にその思想を具現化するのは生易しいものではあるまい。侵略国に対しその定義を押し付けるには、侵略をはね返す防御力が必要なのだ。墨家はその国家防衛の請負人的な役割を果たす事によって、教えを広めていったのだろう。さて映画の『墨攻』は、大国・趙の軍が弱小国・梁を攻めるシーンで始まる。自国を守るために墨家に助けを求めた梁王であったが、やってきたのは革離という男ただ一人。革離は人民の支持をたちまち集め、戦闘集団を指揮、趙の大軍を何度も追い返すのだが、やがて革離を疎ましく思った梁王は…。。というストーリーである。ただ原作は百姓たちが軍事集団に鍛えあげてられていく描写とそれを指揮する革離の内面の葛藤を、攻城戦という舞台で描き、まるで黒沢明監督の『七人の侍』を彷彿されるような一大絵巻になっているのに対し、映画の革離はほとんど悩まず、百姓はいきなり戦士となって戦いはじめてしまう。こうなると大国と小国との攻防戦という図式が薄れてしまい、それが薄れると当然のように墨家の思想を描く必要性が無くなってしまう。そして映画『墨攻』は単なる戦争アクション映画となってしまった。正直唖然とした。あの奥深い原作をどうやったらこんな単純な映画にできるのだ? 怒りがきた。もう信用せんぞ、俺は(何を?)。光陰矢のごとし、月日が過ぎた。DVDがレンタル店に並んだ。私は何故かこの映画を借りた。あれ?なんだか悪くないぞ。すごく雰囲気のいい作品だ。革離のラブシーンも胸を打つものがある。自分なりに考えてみると、劇場のスクリーンで観ると内容にかかわらずどうしても派手なCGに目を奪われがちになる。これだけ派手な合戦シーンに墨家の思想云々を細かに描いていくと、映画自体が重苦しくなってしまうのがわかっていたからこそ、この監督はあえて面白いアクションの中に美しい映像を散りばめることによって映画としての完成度を求めたのではないだろうか? 「観てから読むか、読んでから観るか」は昔の角川映画の宣伝文句だが、原作に影響を受けすぎて映画を観ることはけしていい事ではないのかも知れない。文章と映像ではまったく違う表現方法なのだから。  

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